introduction

――日々、何のために生きているのか、よく分からなくなる。
毎日、毎日、息を吸って吐いて、一体、それが何になるというのだろう。
起きているのか眠っているのかも、ときどき区別がつかなくなるのだ。
女は、ふーっと息を吐いた。
擦り切れた畳の上に手足をだらしなく放り出し、寝転んだまま挑むように天井を見据えた。
しかし、女の瞳には何も映っていなかった。
もっともこんな薄闇の中では、物の位置などぼんやりとしか判別できないのだが、女の、氷
のように冷たい視線は眼前の天井をぶすりと貫いて、時空をも超えて遥か彼方の過去を彷徨っ
ているようだった。
探しものばかりをしていた自分の人生を――。
――なるほどな。女はニタリと笑った。ふいに、むかし見た写真集のことを思い出したから
だ。それは遠い国の「白夜」の風景ばかりを集めた画集だった。
人の書棚から、興味を覚えて勝手に引き出したのだ。
眠らぬ白夜の空には星が瞬くことはない。どこまで行こうとも白い世界だ。探しても、探しても星は見つからない。
存在自体が消えてしまった訳ではないのに。
――まるであたしの人生みたいじゃないか、と思った。
女は再びうっすらと卑屈に笑った。
子供の頃、女はとても大切なものを失った。朝、目が覚めたらそれは忽然と消えていたのだ。
果てしない喪失感は、あの日からずっと続いている。ずっと、ずっと、ずっと――。
喪失感を埋めようと探し続け、必死に足掻いた。何か他に代わるものでもいい、と手当たり次第に求めた。
だが、何ひとつ見つけることなど出来なかったのだ。
虚無感に似た思いが身体じゅうを駆け巡る。女はぎゅっと目を閉じた。
欲しいと思うものは、願えば願うほど逃げていく。掬っても、掬っても、掌から零れ落ちていくのだ。
自分の手には穴でも空いているのではないだろうか――女は両目をかっと見開いた。
恐る恐る両手を顔の前に持ちあげ、じっくりと眺めてみる。
虚しいほど空っぽの掌だった。
次第に、指がまるで一本一本が意思を持っているかのように大きく震えだした。震える手指を口元あたりでぎゅっと握
りしめた。あまりにも強く握りしめたせいで爪が食い込んで痛かった。
ゆっくりと呼吸を繰り返し、再び指を開いた。
掌と甲とを順番に返した。筋張った長い指をしていた。ただひとつの特徴といえば、どの指も第一関節から爪までが外
側に捻じくれたようになっていることくらいか。
そのせいか、どこか武骨な印象を人に与え、どんな色のネイルを塗っても指先が優雅に見えない。
だが、女はそんな特徴を持つ自分の手指を誇らしく思っていた。それが「受け継ぐものの証」なのだ、と信じていたの
だ。この世に唯一無二のものなのだと――。
同時に、女は自分のものではない、もうひとつの手のことを思う。
数時間前まで、決して離すまいとして掴んでいた小さな楓のような手のことだ。頼りなく、小さなその手は可哀そうに
長時間泣き続けた為に少し熱を帯びていた。
愛着なんてまるで湧いてこない。うっとおしいだけだ。なのに互いの手は溶け合うように次第にしっくりと馴染んでい
った。まるで同じ物質で出来ているもののように――女はハッとした。
小さな手を持ち上げてみる。
それは、女と同じ「受け継ぐものの証」にどこか似て見えた。
――まさか。
――あり得ない。
――いや、しかし。でも、どうして?
あれからずっと考えているのだが、そもそも女に答えが分かるはずがないのだ。
だが、偶然ではないことは確信している。それは直感でしかないのだが、女にとっては直感というものが、この世に生
きることの全てなのだ。理屈など、どうでもいい。
その直感で、想像していることはひとつだけある。この世で、もっとも汚らわしい想像なのだが、ただ物理的にどうし
ても繋がらない点があるのだ。
あるはずのない場所に存在しているということ。さずがにそこまでの直感は働かなかった。
女の肩がぴくりと痙攣した。
上体をがばりと起こす。そして目の前を、まるで羽虫でも飛んでいるかのように手でばらばたと払う仕草をし始めた。
そうすることで浮かび上がる疑問符や、汚らわしい想像を打ち消せそうとしていたのかもしれない。
女は四つん這いとなって、あたりを必死に這いまわる。
なかば躍起になって上下左右に左手をぶんぶん振りまわしていた。すると、傍らにあったビールの空き缶に手が触れ、
カラコロと軽い音をさせて缶はあたりに散らばった。昨晩、三本ほど乾してから、そのまま放置してあったものだ。
女はゼイゼイと肩で息をつき、畳にぺたりと座りこんだ。
女はアルコールには強い方だが、ここしばらくは断っていたせいで、缶ビール三本で酔いが回ってしまったようだ。
手足は冷たいのに、頬だけがまだ火照ったようになっている。
女は這いまわるのをやめて頬に手をあてた。ひやりとした冷たさが心地よい。
伏せていた目線を上げると、射してきた白い光に思わず目が眩んだ。窓のカーテンの隙間から白々とした光が差しこみ
始めている。
薄明だ。朝日が昇ってくる――。
女は恐れ慄いた。
朝の光は、女から大切なものを奪う。朝、目覚めるのが怖くていつも、いつもいつも、眠れなかったのだ。
暗闇の中で目を閉じると不意に強い衝動を感じ、覚醒してしまう。
このまま、眠らずにいたい。
だが、気がつくといつのまにか眠りに落ちていて、図らずも美しく悲しい夢を見てしまう。どちらが現実で、どちらが
夢なのか、区別すらもつかなくなり、決まって胸が塞がれたようになるのだ。
ならばいっそ、いつまでも眠って夢を見ていたい――。
もし、女が普段どおりの精神状態だったならば、ふてぶてしいほど強気に立ち向かっていけたはずなのだ。
怠惰に、昼まで寝ることを選んだはずだ。自分はそう振舞うことが許された人間なのだから、と。
だが、今朝だけはどうしても空が明け初めるこの刻を一人で迎える自信がなかった。だから、ぬるくて不味くなった
ビールでも我慢して飲み続けたのだ。
しかし、感覚は鈍るどころか、より繊細に鋭敏に研ぎ澄まされてしまったようだ。女は諦めたように、ゆっくりと立ち
上がった。そして、緩やかに丸みを帯びてきた自分の下腹部をするすると撫でてみる。
なんの感慨も湧いてこない。
やはり自分は不完全な人間なのだな――と思った。
くしゅん、と小さいくしゃみを放った。女は、足元で丸まっていた毛布を引っ張り上げ、それを丁寧に広げた。
それから女は、汗で首に絡みついていた皮の紐を邪魔くさそうに外し、広げた毛布の上に無造作に投げた。
皮の紐に付いている石の飾りが、ゴツンと鈍い音を立てた。音のする方へ、女は眼を向けなかった。
だが、心の中では明らかにそちらを意識している。緑色をした石の飾りの方が、女をねっとりと見返しているような気
がしたので、否定するようにゆらゆらと頭を軽く振った。
覚束ない足取りで玄関へと向かう。三和土でサンダルをつっかけてから、もう一度、室内を振り返り、ぼんやりとした
視線を送る。女の心象そのもののような、家財道具も装飾も全くない部屋だった。ため息をつき、扉を押して外へ出た。
眼前に長い、長い海岸線が広がっている。
裏里であるこの場所は、女が育った町だった。早朝の海は穏やかに波を打っている。朝凪だ。
太陽が低い位置から顔を出して水平線を赤く染めた。
女は吸い寄せられるようにふらふらと浜辺まで降りて、波打ち際に佇み、赤い水平線をじっと見据えた。
女には、太陽が自分のことを、せせら笑いならが昇ってくるように感じられた。
太陽は己の姿を覗かせる前に地上の気温を一瞬ぐっと下げる。一日でもっとも気温の下がる瞬間だ。
その日、一日を規律正しく始めさせるために、地球上のあらゆる邪気を払うべくリセットしているのだ、と女は考えて
いる。なんて傲慢なやり方なのだろう――と苦々しく思った。
「寒い……」
女は、左右の腕で体を包みこむようにして擦った。まるで氷の国に一人、放り出されたようだった。季節はもう清明を
過ぎているというのに、また、あたしだけが違う世界に取り残された――そう憤慨しそうになったが、心にふわりと暖か
い灯がともった。
――清明。
懐かしい言い回し。女は、うっとりと眼を閉じた。
空に浮かぶ雲の刻一刻と変化する形、うろこ雲、むら雲等そのひとつひとのつの呼び名、何万光年もむこうの星の名前
や、二十四節気や自然を表す詩的で奥ゆかしい響きを持った言葉たち。
あの人の愛するものたちだ。
特にあらゆるものが芽吹くこの時季は、あの人の一番好きな季節だった。いつも緩やかに気障に結ばれた唇は、他人が
見ればだらしのないと言うのだが、女は、あの人に相応しいセクシーさだ、と思っていた。
その唇から語られる言葉たちは、美しい雫となって女の心に染みていった。雫は、美しい泉となって女の心を満たし
た。女にとって、あれこそが完全な形をなした幸福の日々だった。
けれど、やがて泉は枯渇した。
掌ではなく、心の方に穴が開いていたのだな――そう思った瞬間、キーンという耳障りな音が突如、女を襲った。それ
は頭蓋骨の中心から発せられている、そんな気がした。続いて感じる頭痛と眩暈。
女は吐き気を催し、よろめいた。
――泉を、再び泉を、満たしたかっただけなのだ。何でもいい。誰でもいい。
何か代わりになるものを、必死に求めていただけなのだ。
けれど、代わりのもので穴を埋めたところで、それが何になるというのだろう。それはすでに完全なものではないのに
だ。頭の中を、まるで大量のミミズが激しく這いまわっているかのような、不快なざわめきに襲われた。
女は叫びだしたかった。
――あたしの心はとっくに死んでいたのだ。なのに体だけが漠然と呼吸を繰り返している。
――ならば、その呼吸をやめてしまえばいい。
ぴたり、と女の頭の中のミミズが動きを止めた。耳の奥で誰かの囁きが聞こえる。
「呼吸を、やめる?」と思わず問い返していた。
海面から突風が吹いて、波打ち際に立っていた女の足もとにザザザと音を立てて波がさざめいた。女の長い黒髪は、ふ
わりと後ろにたなびいた。
完全なる形というものは、少しでも欠けてしまえば価値がなくなる。
――なのに、自分は何を探していたのだろう、と。
――なにを求めていたのだろう、と。
似て非なるもので埋めようとしたこと自体が間違っていたのだ。完全なるものでないのなら、「そんなもの、あたしに
は不要だ」
女はサンダルを脱いだ。
そして、足元にきちんと揃える。砂浜に素足を下ろすと、もう寒さも何もかも感じなかった。
ただ、まっすぐに沖を見据えて一歩前に踏み出した。さりさりと砂が鳴き、ばしゃばしゃと水しぶきが撥ねた。
そのまま女は海の中へと、ざぶざぶと前進していく。
足首、ふくらはぎ、太ももまで海水に浸った。女の着ていた白い服は裾から海水を含みはじめた。
さらに一歩、踏み出した時、腹部にズキッと激しい痛みが走った。ズキズキと激しく脈を打つような痛みに、女は息が
できなくなった。口を開いているのに、息が吸えない、吐けない。
――これで、ようやく完全になれる。
体中から力が抜けて、女の膝ががっくりと折れた。上体から前のめりこむように海の中に倒れこんだ。
バシャーンと激しい水しぶきがあがり、女の意識はぷっつりと途切れた。
少女の章

この世に置いて行かれた者の気持ちは、置いて行かれた者にしか分からないだろう。それは、心の時計が永遠に止まってしまうことなのだ。
水平線を眺めながら少女は思う。
早朝の、風が穏やかな春の海は少女にとっては儀式の時間だ。仄暗い海の底
から、いつか自分に復讐をしに来るのであろうものに対しての祈り。
――いや、その事を恐れているのではない。
と少女は思う。
生まれてきたときから、大して生きていたいなどと思っていないのだ。

ただ、止まってしまった時計を、まだしばらく
見ていなければならないからだ。
それに、もうひとつ。
自分には届けなければいけない「欠片」があるのだ、と。
生まれたときから、いや、生まれる前から心に持っていた「欠片」を届けなければ
いけない。それを届けるべき相手は、どこの誰なのかを少女は知らない。
けれど、出会えば一瞬で分かるような気がしている。
それは「理屈」ではなく、「宿命」なのだ、と――。
ふわりと海風が吹いて、少女の長い黒髪を撫でた。白いワンピースの裾も揺れた。
その時、ふいに視線を感じて少女は後ろを振り返った。
彼の章

彼の心は囚われた。
冷たい光を放つ瞳の少女に。
目も、体も、心も、そして魂も。すべてが一瞬で奪われた――。
彼はときどき、悪夢にうなされる。小さなときからずっとだ。
目が覚めても内容はひとつも覚えていないのに、汗をびっしょりとかい
て、いつも徒労感だけがたっぷりと体に残った。
手を引かれ、どこかへ導かれようとしている――その感触だけは、何故か
リアルに覚えてるのだ。
ある朝、胸苦しさに襲われて、耐えきれなくて外へ出たら、その視線の先
に少女がいた。
その姿は、まるで置き去りにされた子供のようだった。
実際に、少女は置き去りにされた子供だったのだけれど、あれから時が
過ぎ、不思議なめぐり合わせで少女は彼の人生に同居することとなった。
見飽きるほど当たり前に、手を伸ばせば届く距離に。
そのきっかけを作った彼の父親に、彼は腹を立てるべきなのか、喜ぶべきなのか、どう感情を表現していいのか分から
なくなる。もしかしたら、そのどちらも、ぶつけるべきなのかもしれない。
しかし、そもそも何の感情も湧きあがってこないのだ。
強いて言えば苦しいのかもしれない、と彼は思う。目を閉じても、いつも浮かんでしまうのだ。
灰色の海、白いワンピース、黒い髪、そして冷たい瞳とありったけの警戒心。
神々しくも見え、とても眩しく、まぶたの裏に閃光のように焼き付いていて、すごく、すごく痛かった。
今では彼の前でも、少女は糸がほどけたように軽やかに笑う。時にいたずらっぽく。
しかし、彼は少女に触れることができない。ただ、安らかな寝顔をそっと見つめるばかりだった。
このまま時間が止まってしまえばいいのに――と何度も願った。せめて、ずっと見守っていられるように、と。
彼の心はがんじがらめになって、もう二度と動くことができない気がしていた。
喉の奥が熱く、痛い――彼は必死にもがいていた。
だがそれは、彼の閉じ込められていた感情と記憶が解放されつつある予兆でもあるのだった。
彼女の章


彼は、どうやら本当に覚えていないようだ。
彼がくりかえし見る悪夢、
それは遠い「記憶」なのだ――と。
彼女はとうの昔に、そのことに気づいている
のだが、どうしてもそれを言い出す
ことができない。
二人がまだ幼い頃に、
彼が消えてしまわないように、
ずっと手を握っていたのは自分なのだ、と。
自分が沈んでしまいそうな時に、
ずっと手を握っていてくれたのは彼なのだ、と。
そのことだけが、彼女の唯一の支えだった。
彼女は、彼と共有した時間の長さで勝とうとしていた。
今まで頑張ってきたこと、それをここで簡単に放棄する訳にはいかないのだ。
でも、もう限界なのかもしれない――彼女の心は折れそうだった。
彼の心は完全に囚われてしまっている。
それはもう揺るぎないことだ。
心の鍵を持っているのは、自分ではない――そう認めざるを得ない。
溢れでる涙を彼女は止めることはできなかった。
monologue

なぜか、いつも別れは病院においてだった。
不思議な縁に苦笑いが浮かぶ。これも運命なのかもしれない、と。
遡ってみれば、少女の母である人の――いや、彼の母親である人との出会いが
すべての始まりであったのかもしれない。
ひとりの男をめぐり、女はその愛する男の、子供を産んだ。
もう一人の女は、その男の事を生涯求めて命を絶った。ただし、置き土産を
たくさん残して――。
この世に生まれてくる命というものは、何もかも愛おしい。自分が望めないもの
だから、余計にそう感じるのかもしれない。
だから一生をかけて守ろうと、心に決めた。
亡くなった彼女たちに代わり、彼らを手元に置こうと決めたのは、その事が理由の全てだ。
この世に生ける人々は、みな自分の子供のように思える。血ではなく、人種でもなく。世界中を旅して、いくつもいく
つもファインダーに収めてきた。美しい宝たちだと思っていた。
けれど、「血」というのは侮れないものなのだと思い知らされた。彼らは互いを、磁石のS極とN極のように、ぴたり
と寄せ合った。まさか彼らが、こんな風に出会うとは思ってもみなかったのだ。
私が送った、鈍い緑色をした石の首飾りをして少女が現れた時には驚いた。
その石の名前と同じ名前をした少女は、その冷たい目で、人の心をやすやすと奪う。脆く、危うく――まるで、もうひ
とりの女が体の中に同居しているかのように。結局、二代に渡って彼の心をバラバラにしたことになる。
自分のエゴが招いた結果なのかもしれない。「子供たち」を巻き込んでしまったのかもしれない。
自分だけが苦しめられるのなら一向に構わなかったのだが、子供たちには、これ以上傷ついて欲しくはない。
涙が頬をつたったようだ。止めることはできそうにない。
だが、それは彼らにとって必要な時間だったのかもしれない。彼らは傷つきながらも、お互いをどんなに必要としてい
るのか、傍から見ていて痛いほどに分かるからだ。
遠くにいようとも、近くにいようとも、心で繋がっているのだ。
彼らの共鳴は、私には美しい音楽のように心に響いてくる。やはり止められないのだろう。彼らを愛すことを、彼らを
見守ることを。
今、自分が生まれたことの意味が見出せなかったとしても――
今、人を愛することを知って途方に暮れていたとしても――
今、人に依存することを捨てる勇気を持とうとしている者も――
今は、少し休息が必要だ。 だがやがて、みな目を覚まして立ち上がることができるだろう。
そして精一杯、生きるべきなのだ。この世の中に生きる、一人ひとりが全員で美しい調べを奏でているのだから。
みなのその先には、新たな世界が待っているのだから――。
the end